ヒュー・グラントという愉しみ

デヴィッド・カーターは『はじめての戯曲 戯曲の書き方レッスン』(2003・ブロンズ新社)において、プロタゴニスト(主人公)に「障害があっけなく乗り越えられてしまう」こと、「観客の緊張感を高めて興味を引きつけておけるだけの困難さが伴っていない」ことを、新人劇作家が犯しがちな過ちとして挙げている。

一つの戯曲が一人の人物すなわちプロタゴニストについての物語であることは、すでに述べた。プロタゴニストは、使命や目的を達成しようとして挫折する。プロットにあるあれこれの問題に立ち向かい闘った後、最後に、その目的を達成する、または達成に失敗する。その結果として、喜んだり、悲しんだりし、以前よりも悲しげになったり、利口になったり、自信が増したりする。(松田弘子訳)※ルビは省略した

『ラブソングができるまで』で描かれる恋人たちの危機は修復が予見される程度の危機であり、薬物中毒は既に過去の話である。なるほど主人公たちは同情すべき状況を抱えている。しかし破滅に至るほどの危機ではない。と、拙稿「たぶんヒュー・グラントが好きだ」で私は述べた。その映画に感銘を受けつつも、障害の困難さが十分でないことにいくばくかの飽きたらなさを感じたわけだが、本当にそうか。そこでの障害は、本当に大きくはないのだろうか。

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いや、きっと障害は大きいのだろう。だがヒュー・グラントには、大きな障害を前にしてもなぜか飄々としたところがある。危機を危機とも感じさせないおかしみを纏っている。もちろん、彼が演じる人物に(は)という意味ですが。

とても格好いいのだけど、少し微妙なところもある。どこかしら品がある、でも微妙だからか嫌味がない、といったヒュー・グラントの特質こそが、そうしたおかしみを実現する源泉なのではないだろうか。そしてそのヒュー・グラントという愉しみは、ロマンティック・コメディにおいて最も輝くのだろう。

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