ヒュー・グラントという愉しみ
デヴィッド・カーターは『はじめての戯曲 戯曲の書き方レッスン』(2003・ブロンズ新社)において、プロタゴニスト(主人公)に「障害があっけなく乗り越えられてしまう」こと、「観客の緊張感を高めて興味を引きつけておけるだけの困難さが伴っていない」ことを、新人劇作家が犯しがちな過ちとして挙げている。
一つの戯曲が一人の人物すなわちプロタゴニストについての物語であることは、すでに述べた。プロタゴニストは、使命や目的を達成しようとして挫折する。プロットにあるあれこれの問題に立ち向かい闘った後、最後に、その目的を達成する、または達成に失敗する。その結果として、喜んだり、悲しんだりし、以前よりも悲しげになったり、利口になったり、自信が増したりする。(松田弘子訳)※ルビは省略した
『ラブソングができるまで』で描かれる恋人たちの危機は修復が予見される程度の危機であり、薬物中毒は既に過去の話である。なるほど主人公たちは同情すべき状況を抱えている。しかし破滅に至るほどの危機ではない。と、拙稿「たぶんヒュー・グラントが好きだ」で私は述べた。その映画に感銘を受けつつも、障害の困難さが十分でないことにいくばくかの飽きたらなさを感じたわけだが、本当にそうか。そこでの障害は、本当に大きくはないのだろうか。
いや、きっと障害は大きいのだろう。だがヒュー・グラントには、大きな障害を前にしてもなぜか飄々としたところがある。危機を危機とも感じさせないおかしみを纏っている。もちろん、彼が演じる人物に(は)という意味ですが。
とても格好いいのだけど、少し微妙なところもある。どこかしら品がある、でも微妙だからか嫌味がない、といったヒュー・グラントの特質こそが、そうしたおかしみを実現する源泉なのではないだろうか。そしてそのヒュー・グラントという愉しみは、ロマンティック・コメディにおいて最も輝くのだろう。
たぶんヒュー・グラントが好きだ
『ラブソングができるまで』(2007・アメリカ)を見た。ヒュー・グラント、ドリュー・バリモア、ヘイリー・ベネット出演、マーク・ローレンス監督。原題は『Music and Lyrics』で、「ラブソング」も「できるまで」もどこにも出てこないわけだが、そのへんはヘヴィメタルのアルバムを悪魔の鉄槌などと題するようなもので、ある種の洒落として愉しむことにしている。
『ノッティングヒルの恋人』『9か月』……たくさんではないがヒュー・グラントの映画を見てがっかりした記憶がない。白状しよう、たぶんヒュー・グラントが好きだ。この『ラブソングができるまで』も上質な娯楽作品としてすばらしかった。感銘を受けた。だが同時に、上質ということは映画にとって、ほんとうに祝福されるべき属性なのだろうかという問いかけが生じ、もやもやしてもいる。
上質を目指すがゆえにこの映画には破綻がない。描かれる恋人たちの危機は修復が予見される程度の危機であり、薬物中毒は既に過去の話である。そのように書くのはどこか私には、突出した描写を作品に求めているところがあるのだろう。しかし突出した描写がないからこそ、私も安心してはらはらすることができたのだ。つべこべ言うならもうラブコメを見るなと呆れられてもしようがない。
なるほど主人公たちは同情すべき状況を抱えている。しかし破滅に至るほどの危機ではない。それらの状況が色を添えることで、キャッチコピーに従えば、この「王道のロマンティック・コメディ」が成り立つともいえる。帝王ヒュー・グラントに、こちらもラブコメの女王ともいわれるドリュー・バリモア、そして破綻のない上質な展開。『ラブソングができるまで』に感銘を受けつつも、二言三言述べたくなったのは逆説的だが、それには配役やプロットはもちろん、登場人物の立場においても実は、弱いところがないからではないか。強いものには少しはケチもつけたくなります。どうやら私も、この地に典型的な判官贔屓の精神性を引き継いだ模様である。
主にふとしたもやもやのほうを述べたかたちになったが、非常に好もしい音楽制作のシーンもあるし、続けて2回見たほど好きな映画です。
緩いというよりゆるゆるなのですが
今年の抱負めいたものを少し。これはこのブログを始めたきっかけとも大いに係るのですが、もう長い間、映画を見ても見っぱなし、本を読んでも読みっぱなしで、いささかたりとも身になっていないことに対する焦燥があります。
身にならないといけないのかと聞かれれば、そんなことはないとも思いますが、15分ほど見て、あれ、これ前に見たよと気づいたり、読み終えた本を並べようとして同じ本があることに驚いたりするのはやはりうまくない。備忘録は必要ではないかと考えました。見たり読んだりしたことは記録しておこうというのが本年の1つの方針です。
今週のお題「2019年の抱負」
もう1つは曲作りに関して。自分が聞きたいものを作りたいという点に変更はありません。反省点は、これまで早く仕上げたい、早く形にしたいと焦り過ぎていたのではないかということ。だけど、例えばミックスなんかはわけのわからんことだらけで、魔術としか思えないくらいで、その壁を前にすると早く仕上げたいという気持ちなどは行き場をなくしてしまうわけです。
調声の難しさや、乏しい音楽の知識、これまであまりドラムに聞き耳を立てていなかったことなど、他にもいろいろなことが壁になり得るので、それらを前になお早く仕上げたいと願うと、もはや身動きがとれない。ぽかんとするほかはない。
だからイメージとしては、緩く締めたネジを最後に締めなおす、その最後の工程はひとまず措いて、ネジの緩い状態で曲を公開しよう、と。次にネジを締めるときまでに秘策が見つかるかもしれない、誰かが助けてくれるかもしれない。少なくとも、いろいろな音楽に触れる鑑賞体験は増えているだろうから、それも助けになるはずだ。そういうかたちで、完成にこだわらず曲を投稿していこうというのが2つ目の方針です。まあ緩いというよりゆるゆるなのですが。
音楽に知識の乏しい者として
音楽に知識の乏しい者としていつももどかしいのは、曲の印象を説明できないことである。この和音がお洒落だよね、とか、コード進行が説得力あるでしょ、とか言ってみたいのだけど、言えない。好きな曲がなぜ好きなのか見当もつかないのだ。
はなはだうろ覚えだが、『リアリティー・バイツ』でイーサン・ホークが「このチーズバーガーはうまい、それは確かだ。それ以上何を求めるというんだ」というふうなことを言った。私にはそんな台詞も都合よく使って、好きだから好きでいいよね、と済ましてしまうところがある。
だがそうした傾向は曲を作る際には欠点でしかない。あんな感じにしたいと思っても、何をどうすれば再現できるのか、推測が働かず、いいじゃんと思う音が聞こえるまで試すしかない。同じ試すにしても、あたりぐらいつけられたらどんなにいいだろうと、勉強不足を棚に上げて零している。
はじめて聞いたラナ・デル・レイの曲は「ウルトラヴァイオレンス」だった。なんじゃこれ、独特だなと思った。それから他の曲もいろいろと聞いてみたが、共通する独特さがどこから来るものなのかはやはりわからなかった。声なのか、という問も浮かんだが、そのそばから、そんなに単純ではないはずだと異議が呈された。
ここ数日、『ウルトラヴァイオレンス』と『ハネムーン』の2枚のアルバムを交互に聞いているが、結局、なぜそれらが好きなのかはわからずじまいである。なるほど、アルバムジャケットは内容をよく表しているな、後者では光が少し強くなった気がする、と、客観性からはほど遠い印象をつぶやいてみては苦笑している。
気恥ずかしさを感じてしまうところもある
昨年末、「He」を投稿した。
この曲は、以前に「きみと腕時計」と題していたが、今回タイトルとともに、大きく歌詞を変更した。変更点として、以前は1番と2番のBメロ、サビが完全に重複していたが、そのくりかえしを避けた。
次に、Aメロ、Bメロにおいて文字数を減じ、余白を作った。全文ではありませんが、対照表です。
(新) | (旧) |
鱗みたいな波が囁いた 早くおいでと 熱い砂がきみの足を追いたてた 未来から来たんだね きみは 心配になるよ また会いに来るなんて きみは両手で砂を掬う 今も 少年を悲しませたくない ぼくはきみほど複雑じゃないさ うれしいと言ったのは本当さ 少年の目がきみを責めた 早く欲しいと きみは拳を胸に当てた 信じてほしいと 星になったガラスの欠片なんて 存在すると思うかい 波に洗われても そんなふうに見つめないで もう探らなくていい ちょっと落ち着かせて かまわないで 振り向かなくていい |
陽に輝く海が気持ちみたいに揺らぎはじめた 砂の放つ熱が体全部に張りついてきた いつもきみのそばにいるのは自然なことだった いつかこんなふうになるとは想像しなかった だからそんなふうに見つめないで こんなはずではなかった ちょっと落ち着かせて かまわないで こんなはずではなかった きみが腕に巻いた時計の縁がきらきら光る ありふれた会話の隙間になぜかじりじりしてる いつもきみのそばにいるのは自然なことだった いつかこんなふうになるとは想像しなかった だからそんなふうに見つめないで こんなはずではなかった ちょっと落ち着かせて かまわないで こんなはずではなかった |
以前の歌詞では、仲のよい友人の一人を突如異性として意識しはじめることになったときの戸惑いや期待を描いている。今回は多義性や物語性を持ち込むことで、そうした身近さから離れた、いくらか大きなテーマを示したいと考えた。身近な恋愛を描いた歌詞に少し気恥ずかしさを感じてしまうところもあるんでしょうね。
暗いテーマに暗い曲調が合うとは限らない
『シー・オブ・ラブ』(1989・アメリカ)を見た。アル・パチーノ、エレン・バーキン、ジョン・グッドマン出演。監督はハロルド・ベッカー。
3分半に及ぶラストシーンをくりかえし見たくなる。このラストシーンに関しては、
なるほどそこでのパチーノの身のこなしは自然で、かつ印象に残るが、その直前から、それまでずっと固い表情を崩さなかったバーキンが、パチーノのあまりの軽口に思わず口元を緩め、ついには笑みを浮かべてしまう。その相好の流れは、さらに特筆すべきこの映画の美点だろう。
また「シー・オブ・ラブ」という少しノスタルジックで、美しい曲が殺人現場によく合うことは発見だった。暗いテーマに暗い曲調が合うとは限らないのだな、というようなことを考えさえられました。
ヴィブラフォンを使ってみた
「My Harp」を投稿した。改めて振り返ると、この曲を最初に投稿してから2年以上が過ぎていた。当初のタイトルは「矛盾」。論理学的な用語が日常との違和といった感触を醸してくれるのではないかと期待しての採用だったが、時を経ていくらか鼻についてきていたところもあった。それで変更した次第です。
歌詞では「矛盾」を「谷間」に変更したほか、2、3行について差し替えた。「右側だけ髭を生やしたハーピスト」「雨の日に何度もバスを見た」という新たな2行により、非現実的な色合いを加味することを意図している。
それから3ヶ所でヴィブラフォンを使ってみた。Yeah Yeah Yeahs「Sacrilege」を聞いていたときに、こんな感じ(ビデオの1:19あたりから)に音を入れてみたいなと思ったのがきっかけ。なおこのビデオは、表現力が豊かな指揮者(でいいのかな?)の婦人が見たくてくりかえし訪れています。
相違がもう一つ。「矛盾」でのギターは3和音を多用していたが、「My Harp」では単音を主とし、必要に応じ2音または3音を用いている。